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7cm.store(ナナセンチストア)
プロフィール
自己紹介ページへアクセスいただき、ありがとうございます。桃谷翔子と申します。

本編に入る前に、要約をどうぞ。
40秒で読める
プロフィール要約

1985年生まれの縫製職人・布雑貨クリエイター。薬剤師として9年間働いた後、ミシンとの出会いをきっかけに創作活動をスタートし、2024年に自身のブランド「7cm.store」を立ち上げる。

幼い頃は図工の先生になる夢を持っていたが、母親の影響で「好きなことを仕事にするのは難しい」と感じ、薬学部へ進学。しかし、大学入試や国家試験での苦労、さらに薬剤師としての適性に悩む日々を送る。結婚後、不妊治療や乳がんという困難を経験したことを通じて、「人生は一度きり。これからは自分らしい生き方を追求しよう」という想いが芽生え、創作への道を選ぶ。

現在は、「辛さや悲しみと共に生きるために必要な癒しと希望を、布雑貨を通じて形にする」ため、日々挑戦を続けている。創り出されるアイテムには、「癒しとともに、自分の人生に誇りを持てるきっかけになれたら」という願いが込められている。

では、ここから先が、プロフィール本文なのですが、その域を超えた半生(?)を書いてしまい、申し訳ありませんが、かなりの長文になってしまいました。最下部にはおまけを載せてみましたのでお楽しみいただければと思います。コーヒーでも飲みながら、目次から読みたい部分をタップして拾い読みしてください。
読了時間の目安: 55分

桃谷翔子(MOMOTANI SHOKO)

基本情報

  • 縫製職人、布雑貨クリエイター
  • 1985年鹿児島県生まれ神奈川県育ち大阪府在住
  • 森村学園初・中・高等部卒業
  • 東京薬科大学薬学部卒業、薬剤師免許取得
  • 既婚、夫との2人家族

生い立ち

  • 父は自営業。母は自営業の手伝い。3つ年の離れた妹との4人家族。
  • 小学校から私立に通うなど、一般的に見て恵まれた環境で育つ

1995年(9~10才)好きなことを仕事にすることはタブーと認識する

作ることが大好きだった私が抱いた夢

それは「図工の先生」です。頭の中の空想を、目に見える形にすることが楽しかったです。そして図工の授業の時間はのびのびと自己表現していたように思います。

夢の崩壊と封印

物心つくのは遅めの私でしたが、そんな想いを持っていることに自分自身でも気づき、母に「私は将来図工の先生になりたい」と打ち明けました。我ながら自分に合った素晴らしい夢だと思っていたので自信満々でした。しかし、母から返ってきた答えは「だったら、まずは算数と国語の勉強をちゃんとやりなさい。」でした。その瞬間私は、母が私の夢を良く思っていないと理解しました。母は、学校の成績が良いことが最も大事なことだという価値観を持っているので、図工の先生になりたい私の夢を応援する姿勢を見せると、勉強をしなくなると思い、そんな風に言ったのでしょう(多分)。
この出来事がきっかけで、私は「勉強以外のことが好きなのはダメなことなんだ」と自分に言い聞かせ、夢を封印しました。

2003年(18歳まで)好きなことや得意なことが分からないまま育つ

自己分析しようにも、短所しか思い浮かばない

いつの間にかすっかり自己肯定感が低くなっていた私は、高校生の時に行う「進路決定のための自己分析」でとても苦労しました。結局、長所を「好きなことは突き詰める性格」、短所を「がんこで融通が利かない」というふうにまとめたと記憶しています。しかし、これは自分で出した答えではなく、自分の長所がまったく出てこなかったので親に聞いてなんとか出した答えでした。

母親の顔色を伺うように進路を決めた

上で書いたように、好きなことを仕事にすることはタブーで、勉強系で頑張らなければ母に納得してもらえないという考えが刷り込まれており、唯一好きだった教科の化学で進める進路、そして母に受け入れられる進路。というわけで大学の薬学部に進むことに決めました。母は元薬剤師なので、否定されるわけがありませんでした。一応、外向けの理由は「国家資格を取得できれば仕事に困ることがない」というものでした。今考えるとこの理由で薬剤師になってはいけないよ、と今から薬剤師になろうとしている人に伝えたいです。この理由で薬剤師になってしまった私は、のちに本当に痛い目を見たからです。

2004年~2009年(19~24歳)自分の気質に合わない方向へ力づくで進む

自分に合ってないよというサイン①:大学にどこにも受からない

化学が好きということだけは事実でしたが、薬学部に進む意味は全く分からないまま、ただ大学に合格することだけが目標となっていました。勉強にはぜんぜん身が入らず、高3の時はどこの大学にも合格しませんでした。1年間浪人してみっちり予備校に缶詰めになった結果、成績が上がり薬学部に進学できました。しかしこれは、磁石のN極とN極を力ずくでくっつけているような状態です。この後もしばらくこの状態が続くことになります。

自分に合ってないよというサイン②:大学を卒業できない(半年間の卒業延期)

4年生まで、再試験を受けながらも留年することなくギリギリ進級したら、あとは卒論を出して卒業するだけでは? と思われるかもしれません。しかし国家試験取得が目的の大学にとって「国家試験合格率」は、大学の人気に直結します。大学が国家試験合格率を上げるためには、国家試験に合格する見込みのない学生を卒業させない(=国家試験を受けさせない)ということをします。私の成績は、1学年500人近く在籍していた中でも底辺で、おそらく下から10人の中に入っていたと思います。私は卒業延期の対象となり、友達がみんな卒業して社会人になっていくのを見ながら9月に卒業しました。翌年3月の国家試験合格を目指して再び予備校に缶詰め。結果、またしても力づくで国家試験に合格しました(しかもかなり高得点で)。

それでも、一応得たことはあった

「自信はつけるもの」だと思っていましたが「勝手についてくるもの」であることが分かりました。どんな自信だったかというと当時は「合格する自信」なのですが、自信をつける、のではなく、頑張る、ということをひたすら積み上げることで、いつのまにか自信になっていることに気付きました。

2010年~2018年(25~33歳)つらすぎた薬剤師時代

国家試験に合格してからも勉強し続けなければいけない地獄

じつは大学生の時の就活で大手調剤薬局チェーンの会社に内定をもらっていました。しかし、病院の方が施設も大きく、薬局と比較して多種多様の薬や診療科の処方に触れることができることに魅力を感じ、就職先を変更することにしました。そして国家試験に合格し、晴れて薬剤師として千葉県内の病院に就職しました。
これまで大学入試、国家試験、と落ちこぼれながらも力づくでクリアしてきた私は、国家試験に合格した達成感と解放感から「もう何もしたくない」という気持ちになっていました。しかし薬剤師として仕事をするためには、そうはいきませんでした。次から次へと世に出てくる新薬、国家試験合格レベルでは話にならない病気に対する深い知識、その他本当にたくさん、日々勉強し知識を増やしていかなければ人が命を落としてしまうことにつながることを痛感しました。実際に私は大きなミスを犯し、最悪のケースは免れたものの、患者さんに健康被害を及ぼす事故を起こしました。ここで「食べていくのに困らないように資格をとっておこう、という自己都合で薬剤師になるべきではない」と心の底から痛感しました。また、薬や病気に関する勉強を続けたいとは微塵も思えませんでした。ここでようやく、私は薬剤師になるべき人間ではなかった、と気が付きました。
気が付いてしまったら、もう生き地獄のような毎日です。しかし、生きるためには収入が必要で、国家資格を取得したらそれにすがって生きていくしかないという思い込みから、そのままその日をどうにかクリアすることを繰り返し、病院は3年、その後調剤薬局に6年勤務しました。つらい、やめたい、と思いながらじつに9年間という歳月が流れました。

救いだったのは、同期や先輩後輩が楽しい人ばかりで、仕事以外でたくさん遊びに出かけたこと

病院勤務時代、私の同期は皆大学を4年で卒業し、さらに大学院も行っているという経歴で、私とは比べ物にならないほど薬剤師として志が高く、人としても素晴らしい人達でした。なので、こんなポンコツ薬剤師である私のことをバカにするような態度は全く見せず(内心は思われていたと思いますが)、仕事でも仕事以外でも、本当に仲良くしてくれました。さらに同期だけでなく先輩や後輩も遊ぶことが好きで、皆で海でバーベキューをしたり山へ行ったり、仕事後カラオケに行ったり、深夜にラーメンを食べに行ったり、泊りがけでスノボに行ったり、音楽フェスやライブに行ったり、マラソン大会に参加したり、懐石料理をたべたり、旅行に行ったり、などなど本当に学生かと思えるほどの楽しい時間をたくさん過ごす事が出来ました。これが、つらい薬剤師時代の唯一の救いでした。(薬局に転職してからは急に独りぼっちになったので、けっこうしんどかったです💧)

2017年~2020年(32~35歳)結婚→不妊治療→退職→乳がん

ここから人生が目まぐるしく変わっていきます。

家族想いの優しい夫と結婚

人生最大の幸せは、夫と結婚したということです。夫はもともと家族想いな性格ということもあってか、私のことも大切に想ってくれていることが伝わっていました。

一度も妊娠できず、生きる意味が分からなくなっているところに追い打ちをかけるように乳がんの告知を受ける

結婚してすぐ32歳になった私は、夫婦だけの時間は1年くらいでいいかな、と思っていました。いざ妊活に入ると、まったく妊娠しないことに焦りを感じ、わりと早い段階で不妊治療のクリニックに通い始めました。それでも全く妊娠することが出来ず、毎月地獄に突き落とされたような気持ちで泣いていました。教科書どおりに治療内容もステップアップし、最終的には人工授精(体外ではない)を数回行いました。その頃、住んでいた神奈川県から夫の故郷である大阪に引っ越しすることが決まっていたので、大阪で不妊治療クリニックを探さなきゃ、と考えていましたが、乳がんの告知とともにその計画は消滅しました。乳腺クリニックの医者に「なんでもない」と言われて1年ほど放置していた胸のしこりが大きくなっていて、引っ越し前にもう1回診てもらおう、くらいの軽い気持ちで受診したところ、「なんでもない」はずだった物は、がんと判明しました

乳がんの告知を受けた状態で大阪へ引っ越し

大阪の病院へ紹介状を書いてもらった状態で、引っ越すことになりました。もっと早くがんだと分かっていれば。と後悔すればきりがありません。医者を責めたくなる気持ちも、なかったわけではありません。しかし「誤診ですよね、訴えます。人生返してください」なんていうエネルギーは少しも湧きませんでした。とにかく早く治療を開始したい。その一心でした。クリニックの医師には、今後二度と私のような患者を世に出すことのないよう、心に誓ってほしいです。そして今回のことがきっかけで私は「医者もしょせん患者のことは他人事。自分の身は自分で守る」と肝に銘じるようになりました。(えらそうに言ってますが、私も薬剤師の頃に重大事故を起こしているので、人のことを言える立場ではないですよね。その患者さんも「薬剤師は信用ならない」と思っていると思います。)

コロナ禍で手術、抗がん剤など治療開始

大阪への引っ越し翌日、乳がんの初診でした。当時の私の年齢は34歳で乳がんを罹患するには若い方だったと思います。そして、胸のしこりは肉眼で見てもはっきり分かるサイズになっていました。私は「死ぬかもしれない」と、半ばパニックになっていました。主治医からは全摘を勧められ、私も早く胸ごと切り取って欲しいと思っていました。この「がんを体に抱えながら、まだ無治療、手術の順番待ち」という状況が最も怖いものでした。まるで死神に捕まって取り押さえられ、いまにも殺されるかのような、恐怖で切迫した気持ちで、夜も眠れず、睡眠薬を処方してもらったことを覚えています。手術当時、世間は新型コロナウイルスによる最初の緊急事態宣言が出されていました。私にとっては、全く知らない大阪への引っ越し、得体の知れないウイルスに振り回され、乳がんにおびえて過ごす、という中々のハードモードでした

がんになり、人生観が大きく変わった

乳がんになってしまったことは、今でも受け入れたくない現実です。しかし同時に

『今まで気にしていたことは本当に小さかった。人生一度きり。これからは、自分らしく生きていく。』

という強い思いが芽生えました。その思いが私の価値観を大きく変え、人生において本当に大切なものを見つめ直すきっかけとなりました。

2020年(35歳)絶望の闇に光をくれたのがミシンでした

職業用ミシンとの出会い

2020年の夏。世間はコロナの真っただ中。そして私は乳がんで抗がん剤の治療の真っ最中でした。世間的にも外出がままならず、私自身も外に出かけられる状態ではありませんでした。そんなときに「ミシンであれこれ作りたい!」という気持ちが沸き起こりました。しかし私は、家庭用ミシンにある「たくさんある刺繍機能」がどうしても必要ありませんでした。本当にただ縫う機能だけのミシンって無いのかな。と思って調べていると「職業用ミシン」という存在があることを知りました。ただ真っ直ぐ縫うだけに特化したミシンで(布を回せばカーブも縫える)しかも丈夫で壊れないらしい。これだ!と思いましたが、プロも使う機械とあって値段が高い…しかし、このミシンを買うしか方法は無い。悩んだ末、近所にあったミシン屋さんに行き、夫が買ってくれました。私のやりたいことを応援してくれるやさしい夫に感謝しています

ミシンをしている時だけは、病気のことを忘れていられた

それからは夢中になってミシンで遊ぶようになりました。思うように上手に仕上げられないことが悔しくて、朝起きるのが苦手な私が朝5時に起き、何かに取りつかれたように、わきめもふらず、ミシンに向かって小物を縫い、YouTubeや本で縫い方を勉強する、ということを繰り返していました。そして、ミシンをしている時は病気のことを忘れていられることに気付きました。それくらい、夢中になって取り組むことができたのがミシンでした。そのことが、当時の私にとっては本当に救いでした

メルカリで売ったら売れた喜び

ちょっとずつ職業用ミシンの扱いに慣れた頃、ミシンで作った物を販売してみようかな、と考えるようになりました。どうやら、入園入学シーズンに向けてレッスンバッグや上履き入れのような袋物が売れるらしいと分かり、材料をそろえ、作り方はネットで調べ、完成品に値段をつけてメルカリで出品してみました。この出品のためにメルカリに初めて登録し、つねにスマホをチェックして閲覧数を見たり、どうして買ってもらえないのかと悩んだり、しばらくメルカリに振り回されていました(笑)ついに私は、すべての値段を最低価格の300円にし、これでどうだ、と反応を見ていました。3月下旬になって、私が出品した商品は完売しました。梱包と発送、質問への返答などで、とても忙しくなったのを覚えています。実際は300円だったから購入していただけただけで、お客さんからすると誰が作ったかなんて知ったこっちゃないわけで、おまけにすっかり赤字なのですが、そんなことはどうでも良くなっていました。作った商品を選んでくれて、レビューに「かわいいです」とか「大切に使います」など書き込んでもらえたことで、自分が直接人の役に立てた、という嬉しさでいっぱいになりました。薬剤師の時には感じることのなかった、まさに初めての「やりがい」を感じる経験でした

さらにミシンを活用するため、仕事に応募したら採用してもらえた

ポーチや巾着など、作りたい物を一通り作り終わったところで満足し、気が付くと半年くらい、ミシンが使われずに放置されている状態でした。このままではもったいないから、このミシンを活用する方法はないかな? と考えていると、縫製工場が内職の求人をだしているのを見つけたので応募しました。今思えば、縫製の仕事の経験が全くないのによく応募したなと思います😅薬剤師が国家資格だっただけに、「ミシンを扱うのに資格は不要だから」と正直なめてました。反省しています。私は内職へ応募し、工場から届いた課題を仕上げて提出すると「きれいに縫えています。縫い方はどこで覚えたの?」とまさかのコメントをいただき、ありがたいことに、仕事をさせていただけることになりました。それから2年4か月の間、様々な布製品を大量に作りました。(実績は後述

2021年~2024年(36~38歳)ミシンで内職→独立を決意

好きなことでお給料をもらえることの喜び

私を内職として採用していただいた担当の高齢女性と最初に電話で話をしたとき、こんなことを言われました。「内職って、家事の合間にちょこちょこっとやれる物だと思ってますか?(=そんなことないのよ) 頑張れますか?」「いまコロナの影響で仕事が減っています。他にも内職さんが100人くらいいる中で、いきなりあなたに仕事を回してあげられないかもしれません」
私はミシンで仕事がしたい気持ちが強かったので、どちらも了承し、覚悟しました。ふたを開けてみると、大きい段ボールが何箱も自宅に届き、怒涛のミシンの日々が始まりました。率直に感じたことは「無理!」でした(笑)あれ?話と違うではないか。と思いましたが必死になってがんばりました。しかも商品を作る手順書や図が手書きで、意味がよく分からない箇所があったり、聞いたことのない専門用語もちらほら。素人出身で縫製の仕事は未経験だからといって、特別に配慮してくれたりすることはありません。最初の1枚を仕上げてGoサインが出たら量産できるというルールなのですが、その1枚を仕上げるのに四苦八苦でした。分からない箇所をいちいち忙しい担当者へ連絡することははばかられたし(もちろん質問は可能)、今後のことも考え、急いで本を買ったりネットで調べたりしながら、少しずつ手順書の内容や専門用語を理解できるようになりました。初めて数万円のお給料をいただけたときは、薬剤師の給料よりはるかに少ないにもかかわらず、薬剤師の時には感じることのなかった幸福感を感じる事が出来ました。

お金をもらいながらスキル習得できることへ感謝

内職なので賃金はとても安く、肉体的にもきつかったです。しかし(技術習得のために、お金を払ってスクール等に通う、という手段もありそうな中で、)お金を貰いながらゼロから技術を習得させてもらえたことはとてもありがたく、感謝しています。また、実際にお店などで既製品として販売されている商品を作らせていただいたことで、「売り物を作る」ということに対して自信がもてるようになりました。1日中ミシンに向かわないと締め切りに間に合わないなど、大変な面もありました。しかし、自分の好きな「作る」ということで世の中に貢献できることがこんなにも幸せなことなんだということを強く感じることができました。改めて、未経験の私がお金を頂きながらゼロから技術を習得させていただけたことはとてもありがたく、大変感謝しています

内職で学んだこと

ちょっと背伸びをし続けることで成長できる

この仕事で学んだことは、「成長するためには、”無理かも”と思うところへ飛び込んでチャレンジすること」です。できないと思っても、工夫や試行錯誤で出来るようになることを繰り返しているうちに、縫えないものなんてない。と思えるくらいに成長していました。そして、有名ブランドの商品を縫わせていただけたときは、とても嬉しかったです。

難しくてできないと思っても、あきらめないことが大切

小さくて、立体的で、ファスナーやポケットなど、機能がたくさんついているような商品は、工程も多く、作るのがとても難しいです。難しくって縫えないと感じ「私には出来ませんって言おうかな…」とあきらめそうになるのですが、まずはおちついて、どうすればきれいに仕上がるのかをじっくり考え、ミリ単位で調節しながら、少しずつ納得のいく仕上がりにすることができるようになりました。

2024年(39歳)ブランドを立ち上げ独立。個人事業主としてスタートラインに立つ

私が生きていく道はミシンで人の役に立つこと

たくさん仕事をさせていただいた縫製工場には、感謝の気持ちでいっぱいです。縫製の業界では工場はどんどんコストの安い海外へ移り、日本では職人が高齢化し、人数も減っているということです。なので私が内職をやめたいという連絡をしたときは、本当に心苦しく申し訳ない気持ちでした。私はメルカリで300円で出品した商品に対してあたたかいレビューを頂いた時の喜びが忘れられず、内職をしながら「いつかは自分で生み出した物で、直接人の役に立ちたい」と思うようになっていました。乳がんの治療を始めたばかりの頃に私を闇から救ってくれたミシンで、これからは、辛さを抱えて生きる人の心を癒せる存在となれるよう、がんばっていこうと思います

色々あったけど、最終的には自分が向かうべき方向へ進んでいることに気付く

「好きなことで生きていくことはタブー」と思っていた子ども時代があって、仕事は苦行であることは当然だと思い込んでいました。しかし、不妊や乳がんといった闇をさまよいながらも、ミシンが私を闇から救ってくれました。私はこれを偶然とは思いません。この幸せに感謝しながら、過去の経験を糧に、人の心を癒せる仕事ができるよう、できることを続けていきます。

2年4か月の内職で作ったもの(合計6806点)

さすがに、商品のメーカーや品名をここに書き出すわけにはいきませんが、私が2年4か月の間に実際に作った商品のカテゴリーや個数を、ここに実績として載せておきます。

キッズ用レッスンバッグ 328枚
キッズ用上履き入れ 208枚
健康グッズ 396枚
ブックカバー 100枚
ポーチ 310枚
バッグ 369枚
手指消毒用品ケース 350枚
ベビースリング 405枚
椅子座面カバー 640枚
巾着袋 177枚
キッズ用水筒ケース 108枚
ポシェット 155枚
マスク 200枚
キッチンパラソル 50枚
医療機器用カバー 200枚
キッズ用BOTケース 290枚
キッズ用携帯ケース 540枚
ランドセル用ポーチ 760枚
ストラップ 300枚
サコッシュ 250枚
カトラリーケース 570枚
ドライヤー袋 100枚

おまけ。影響を受けている人物

勝友美さん

突如、私のYouTubeのオススメに出てきたオーダーメイドスーツ会社の社長。短大を留年したり、なんと私と同じ1985年生まれであるにも関わらず、28歳で起業し、100年先まで愛されるブランドを作るという強い想いで成功を納めている女性。YouTubeでは、夢を持って生きることの素晴らしさをテーマに発信されています。きれいでかっこよくて、あこがれの女性です。マインドも素晴らしくて勉強させてもらっています!

八木仁平さん

自分に対する理解を深めることの重要さを広めている社長。この方もYouTubeのオススメに出てきたことで知りました(もしかしてYouTubeって私の人生に多大な影響を与えている!?)。YouTubeのロング動画「やりたいこと相談会」は、人生を変えたくても、やりたいことで生きていく方法が分からない、といった悩みを抱えた相談者を、八木さんの理論で解決へ導くというものです。これは動画本編だけでなく、視聴者からの共感のコメントも読みごたえがあり、私も自分らしく生きていく上で結構ヒントをもらうことができました。私にとっては有料級で価値あるチャンネルです。

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