プロフィール

プロフィールページへアクセスいただき、ありがとうございます。このページでは

  • 私のこれまでの歩み
  • ミシンを仕事にしている理由
  • 今後の展望

についてお伝えします。ただし、ご覧いただく前にお伝えしたいことがあります。以下の「はじめにお読みください」をお読みいただき、ご理解のうえご覧ください。

はじめにお読みください

このプロフィールには、私の過去の経験である不妊治療と乳がんについて触れている部分があります。これらの経験は私にとって大切な一部であり、今の活動の原動力となっています。

同じような経験をされた方には、少しでも共感や勇気を感じていただけたら幸いです。

もし、これらの話題に触れることに抵抗がある場合は、ご自身のペースでお読みいただくか、読み飛ばしていただいても構いません。ご理解いただけますと幸いです。

改めして、アクセスしていただき、ありがとうございます!

ご興味のある箇所から、ゆっくりと読んでいただけたら嬉しいです。

桃谷翔子(MOMOTANI SHOKO)

基本情報

1985年生まれ
森村学園初・中・高等部卒業
東京薬科大学薬学部卒業、薬剤師免許取得
夫と二人暮らし

生い立ち

父は自営業。母は自営業の手伝い。
3つ年の離れた妹との4人家族でした
小学校から私立に通わせてもらうなど、一般的に見て恵まれた環境で育ちました

1995年(9~10才)幼いながらに、好きなことを仕事にすることへの難しさを感じる

作ることが大好きだった私が抱いた夢

それは「図工の先生」です。頭の中の空想を、目に見える形にすることが楽しかったです。そして図工の授業の時間はのびのびと自己表現していたように思います。

夢との出会いと戸惑い

物心つくのは遅めの私でしたが、図工の授業が大好きだという気持ちに気づき、母に「私は将来図工の先生になりたい」と話しました。すると母は「それなら、まずは算数と国語の勉強をちゃんとやりなさい。」と答えました。その時私は、母が私の夢を良く思っていないと理解しました。
この出来事がきっかけで、私は「勉強以外のことが好きなのはダメなことなんだ」と思うようになり、夢を心の中にしまうことにしました。

2003年(18歳まで)好きなことや得意なことが見つけられない

自己分析しようにも、短所しか思い浮かばない

自己分析をしようとしても、短所ばかりが思い浮かびました。
いつの間にか自己肯定感が低くなっていた私は、高校生の時に進路を決めるための自己分析でとても苦労しました。結局、長所は「好きなことには熱中する性格」、短所は「頑固で融通が利かない」というようにまとめたと記憶しています。しかし、これは自分で本当に納得した答えではなく、自分の良いところが見当たらなかったので親に相談して、なんとか見つけたものでした。

進路を決めた時のこと

以前から、好きなことを仕事にすることは母に受け入れてもらえないと感じていたため、唯一好きだった化学という教科と、母が納得してくれる進路を選びたいと考えました。そこで、大学の薬学部に進むことに決めました。母は元薬剤師なので、反対されることはありませんでした。表向きの理由は「国家資格があれば、将来仕事に困らないだろう」というものでした。今振り返ると、この理由だけで薬剤師を目指すべきではなかったと、当時の自分に伝えたい気持ちになります。なぜなら、この理由で薬剤師になった私は、後々本当に苦労することになったからです。

2004年~2009年(19~24歳)自分の気持ちに気づかず、進むべき道を探す

迷っていた時期①:大学受験

化学が好きだったのは事実ですが、薬学部に進むことに具体的な目標があったわけではなく、ただ大学に合格することだけを目指していました。高校3年生の時は勉強に身が入らず、どの大学にも合格できませんでした。1年間浪人して予備校に集中した結果、薬学部に進学できましたが、それは無理やり進んでいるような感覚でした。この状態はしばらく続くことになります。

迷っていた時期②:大学生活と卒業

国家試験の合格率が大学の評価に大きく影響するため、合格の見込みがない学生は卒業が難しくなることがあります。私の成績は、500人近くいた学年の中でもかなり下の方で、おそらく後ろから数えた方が早かったと思います。そのため卒業延期の対象となり、友人が先に社会に出ていくのを見送りながら、9月に卒業しました。翌年3月の国家試験合格を目指して再び予備校で学び、結果として、またしても努力によって合格を掴み取りました。

それでも、得られた学び

「自信はつけるもの」だと思っていましたが「勝手についてくるもの」であることが分かりました。当時は「合格する自信」なのですが、自信をつけようとするのではなく、ひたすら頑張ることで、いつのまにか自信になっていることに気付きました。

2010年~2018年(25~33歳)薬剤師時代

国家試験に合格後も続く勉強…

大学生の時の就職活動で、大手調剤薬局チェーンから内定を得ていました。しかし、病院の方が施設も大きく、薬局と比較して様々な種類の薬や診療科の処方に触れることができる点に魅力を感じ、就職先を変更しました。そして国家試験に合格し、千葉県内の病院に薬剤師として就職しました。
これまで大学入試、国家試験と、苦労しながらもなんとか乗り越えてきた私は、国家試験に合格したことで達成感と解放感を覚え、「もう何もしたくない」と感じていました。しかし、薬剤師として働くためにはそうはいきません。次々と登場する新しい薬、国家試験の知識だけでは対応できない病気に関する深い知識など、常に学び続けなければ、人の命に関わる事態を引き起こしかねないことを痛感しました。実際、私は大きなミスを犯し、幸い最悪の事態は免れたものの、患者さんの健康に影響を与える事故を起こしてしまいました。この経験から、「ただ仕事に困らないように」という自己都合で薬剤師になるべきではなかったと深く反省しました。また、薬や病気に関する勉強を続けたいとは全く思えませんでした。ここでようやく、自分は薬剤師に向いていなかったのだと気づきました。
そう気づいてしまうと、毎日は辛いものでした。しかし、生活のためには収入が必要であり、国家資格を得たからにはそれを頼りに生きていくしかないという思い込みから、ただ目の前のことをこなす日々を繰り返し、病院に3年、その後調剤薬局に6年間勤務しました。辛い、辞めたいと思いながらも、9年という月日が過ぎました。

救いだった職場の仲間たち

病院勤務時代は、同期や先輩後輩に楽しい人が多く、仕事以外でもたくさん遊びに出かけました。
私の同期は皆、大学を4年で卒業し、さらに大学院にも進んでいるような優秀な人たちで、私とは比べ物にならないほど薬剤師としての志が高く、人としても素晴らしい人ばかりでした。こんな私のような頼りない薬剤師に対しても、バカにするような態度は全く見せず(内心はそう思っていたかもしれませんが)、仕事でもプライベートでも、本当に良くしてくれました。同期だけでなく先輩や後輩も遊び好きで、皆で海でバーベキューをしたり、山へ行ったり、仕事終わりにカラオケに行ったり、深夜にラーメンを食べに行ったり、泊まりでスノーボードに行ったり、音楽フェスやライブに行ったり、マラソン大会に参加したり、懐石料理を食べたり、旅行に行ったりと、まるで学生時代に戻ったかのような楽しい時間をたくさん過ごすことができました。それが、辛かった薬剤師時代の唯一の心の支えでした。(薬局に転職してからは、急に一人になり、少し寂しかったです。)

2017年~2020年(32~35歳)結婚、不妊治療、退職、そして乳がん

ここから私の人生は大きく変化していきます。

家族想いの優しい夫と結婚

人生で最も幸せだったのは、夫と結婚できたことです。夫はもともと家族思いな性格で、私のことを大切に思ってくれていることが伝わってきました。

妊娠への願いと、予期せぬ告知

結婚してすぐに32歳になり、夫婦二人の時間は1年くらいで良いかなと思っていました。しかし、妊活を始めてもなかなか妊娠せず、焦りを感じ、比較的早い段階で不妊治療のクリニックに通い始めました。それでも全く妊娠することができず、落ち込む日々でした。治療は段階的に進み、最終的には人工授精(体外受精ではない)を数回行いました。その頃、神奈川県から夫の故郷である大阪へ引っ越すことが決まっており、大阪で不妊治療のクリニックを探さなければと考えていましたが、乳がんの告知を受けたことでその計画はなくなりました。乳腺クリニックの医師に「問題ない」と言われて1年ほど放置していた胸のしこりが大きくなっており、引っ越し前に念のためもう一度診てもらおうと軽い気持ちで受診したところ、「問題ない」はずだったものが、がんと診断されました。

乳がん告知を受け、大阪へ

大阪の病院への紹介状を用意してもらい、引っ越すことになりました。もっと早くがんだと分かっていれば、と後悔しても仕方がありません。医師を責めたい気持ちも少しありましたが、「誤診ですよね、訴えます。人生を返してください」というような強い感情は湧きませんでした。とにかく早く治療を始めたい、その一心でした。クリニックの医師には、今後私のような患者さんを出さないよう、心に留めておいてほしいと願います。そしてこの経験から、自分の健康は自分で守るという意識を強く持ちました。(このように言っていますが、私も薬剤師時代に重大な事故を起こしているので、人のことを強く言える立場ではないかもしれません。その患者さんは「薬剤師は信用できない」と思っているかもしれません。)

コロナ禍で治療開始

大阪への引っ越し翌日、乳がんの初診を受けました。当時の私は34歳で、乳がんになるには比較的若い年齢だったと思います。そして、胸のしこりは見た目にもはっきりと分かるほど大きくなっていました。「もしかしたら死んでしまうかもしれない」と、半ばパニック状態でした。主治医からは全摘手術を勧められ、私も早く手術してほしいと思っていました。「がんと共に、まだ治療も始まらず、手術を待つ」という状況が、最も不安でした。まるで死神に捕らえられ、今にも命を奪われるような恐怖と焦りで、夜も眠れず、睡眠薬を処方してもらったことを覚えています。手術の頃は、新型コロナウイルスによる最初の緊急事態宣言が出ていました。私にとっては、全く知らない大阪への引っ越し、先の見えないウイルスへの不安、そして乳がんへの恐怖と、三重苦のような状況でした。

がんを経験し、死と向き合い、大きく変わった人生観

乳がんになってしまったことは、今でも受け入れたくない現実です。しかし、「死」を意識し、真剣に向き合ったことで、

『今まで気にしていたことは、本当に小さなことだった。人生は一度きり。これからは、自分らしく生きていこう。』

という強い思いが生まれました。その思いが私の価値観を大きく変え、人生で本当に大切なものを見つめ直すきっかけとなりました。

2020年(35歳)絶望の闇に光をくれたのがミシンでした

職業用ミシンとの出会い

2020年の夏、世の中はコロナ禍で、私は乳がんの抗がん剤治療を受けていました。外出もままならず、家で過ごす時間が多くなりました。そんな時、「ミシンで色々なものを作りたい!」という気持ちが湧き上がってきました。しかし、家庭用ミシンによくあるたくさんの刺繍機能は私には必要ありませんでした。本当にシンプルな機能で、丈夫なミシンを探していたところ、「職業用ミシン」というものがあることを知りました。その機能性と耐久性に魅力を感じましたが、価格が高く悩みました。それでも、どうしてもこのミシンが必要だと感じ、購入を決意しました。ミシンは夫がプレゼントしてくれました。私のやりたいことをいつも応援してくれる優しい夫に感謝しています。

ミシンに没頭している時間は、病気のことを忘れていられた

それから夢中でミシンを使うようになりました。思うように作れないことが悔しくて、朝起きるのが苦手だった私が朝5時に起き、夢中になってミシンに向かい、小物を縫ったり、YouTubeや本で作り方を学んだりする毎日を繰り返しました。そして、ミシンを使っている間は病気のことを忘れられることに気づきました。それほど、夢中になって取り組めたのがミシンだったのです。それが、当時の私にとって大きな心の支えとなりました。

メルカリでの小さな成功体験

少しずつ職業用ミシンの扱いに慣れてきた頃、ミシンで作ったものを販売してみようかな、と考えるようになりました。入園入学シーズンに向けて、レッスンバッグや上履き入れのような袋物が売れるらしいと知り、材料を揃え、作り方をネットで調べて、完成品に値段をつけてメルカリに出品してみました。この出品のために初めてメルカリに登録し、常にスマホをチェックして閲覧数を見たり、なかなか売れないことに悩んだり、しばらくメルカリに翻弄されていました(笑)。そこで思い切って、すべての商品の値段を最低価格の300円にしたところ、3月下旬になって出品したものが全て完売しました。梱包や発送、質問への返信などでとても忙しくなりました。実際は300円という価格で購入していただけただけで、お客様からすれば誰が作ったかなんて関係ないことですし、完全に赤字でしたが、そんなことはどうでもよくなっていました。自分が作った商品を選んでいただき、レビューで「かわいいです」「大切に使います」とコメントをいただけたことで、初めて人の役に立てたと実感し、とても嬉しくなりました。それは、薬剤師時代には感じられなかった、初めての「やりがい」を感じる経験でした。

ミシンの更なる活用

ポーチや巾着など、作りたいものを一通り作り終えて満足し、半年ほどミシンを使わない時期がありました。せっかく買ったのだから、もっと活用できないかと考え、縫製工場が内職の求人を出しているのを見つけて応募しました。今思えば、縫製の経験が全くなかったのによく応募したなと思います😅薬剤師が国家資格だっただけに、「ミシンを扱うのに資格は不要だから」と少し安易に考えていたかもしれません。反省しています。内職に応募し、工場から送られてきた課題を提出すると、「きれいに縫えていますね。どこで縫い方を覚えたのですか?」と嬉しいコメントをいただき、ありがたいことに仕事をさせていただけることになりました。

2021年~2024年(36~38歳)内職時代

好きなことで得られる喜び

内職として採用してくださった担当の方から、内職は決して楽な仕事ではなく、仕事がすぐに来るとも限らないと、電話で丁寧に説明を受けました。
私はミシンで仕事がしたいという気持ちが強かったので、どちらも承知し、覚悟しました。実際に仕事を始めると、大きな段ボールが何箱も自宅に届き、ひたすらミシンに向かう日々が始まりました。想像以上に大変で、正直「私には無理かもしれない…」と感じることもありました。しかし、どうしてもこの仕事をやり遂げたいという強い気持ちで、必死に取り組みました。商品を作る手順書や図が手書きで、分かりにくい部分や、初めて聞く専門用語もいくつかありました。縫製の経験がない素人の私に対して特別な配慮はなく、最初の1枚を仕上げて許可が出たら量産できるというルールでしたが、その1枚を仕上げるのに大変苦労しました。分からない箇所を忙しい担当者の方に何度も質問するのは気が引けたので(もちろん質問は可能でしたが)、今後のことも考え、急いで本を買ったりネットで調べたりしながら、少しずつ手順書の内容や専門用語を理解できるようになりました。初めて数万円のお給料をいただいた時、それは薬剤師時代の給料よりずっと少なかったのですが、薬剤師の時には感じられなかった幸福感を得られました。

スキル習得できることへの感謝

内職なので賃金は決して高くはなく、肉体的にも大変な面がありました。しかし、(通常ならお金を払って技術を学ぶスクールに通うところを、)お金をいただきながらゼロから技術を習得させていただけたことに、とても感謝しています。また、実際にお店で販売されている商品を作らせていただいたことで、「売り物を作る」ということに対して自信を持つことができました。一日中ミシンに向かわないと納期に間に合わないなど、大変なこともありましたが、自分の好きな「作る」という行為で世の中に貢献できることが、こんなにも幸せなことだと強く感じることができました。改めて、未経験の私がお金をいただきながら技術を習得させていただけたことに、心から感謝しています。

内職を通して学んだこと

少し背伸びをすることの大切さ
この仕事で学んだことは、「成長するためには、少し難しいと感じることに思い切って挑戦すること」です。最初はできないと思っても、工夫や試行錯誤を繰り返すうちに、縫えないものはないと思えるほど成長していました。そして、有名ブランドの商品を縫わせていただけた時は、本当に嬉しかったです。

諦めずに試行錯誤すること
小さくて立体的で、ファスナーやポケットがたくさん付いているような複雑な商品は、工程も多く、作るのがとても難しいです。難しくて「もう無理かもしれない」と諦めそうになることもありましたが、まずは落ち着いて、どうすればきれいに仕上がるのかをじっくり考え、ミリ単位で調整しながら、少しずつ納得のいく仕上がりにすることができるようになりました。

2024年(39歳)誰かに喜んでもらえる仕事がしたい

これからは、ミシンを通して、人の役に立てるように生きていきたいと思っています。
たくさんの仕事をさせていただいた縫製工場には、感謝の気持ちでいっぱいです。縫製業界では、工場はどんどんコストの安い海外へ移転し、日本では職人さんの高齢化と人手不足が進んでいると聞きました。そのため、私が内職を辞めたいと連絡した時は、本当に心苦しく、申し訳ない気持ちでした。メルカリで300円で出品した商品に温かいレビューをいただいた時の喜びが忘れられず、内職をしながら「いつかは自分で作ったもので、直接誰かに喜んでもらいたい」と思うようになっていました。乳がんの治療を始めた頃に私を支えてくれたミシンで、これからは人々の心を癒せるような存在になれるよう、精一杯頑張っていきたいと思っています。

様々な経験を経て

「好きなことで生きていくことは難しい」と思っていた子供時代があり、薬剤師になって、仕事は大変なものだと考えていました。しかし、不妊や乳がんといった困難を経験しながらも、ミシンが私を支え、新たな道を開いてくれました。この経験を偶然だとは思っていません。この幸せに感謝しながら、過去の経験を糧に、人の心を癒せるような仕事を続けていきたいです。

2年4か月の内職で制作したもの(合計6806点)

内職では、本当にたくさんの布小物を作らせていただきました。その数、合計6806点になります。商品のメーカー名や品名を具体的に記載することは控えますが、2年4ヶ月の間に製作した商品のカテゴリーを以下に示します。

レッスンバッグ・上履き入れ・健康グッズ・ブックカバー・ポーチ・バッグ・手指消毒用品ケース・ベビースリング・椅子座面カバー・巾着袋・キッズ用水筒ケース・ポシェット・マスク・キッチンパラソル・医療機器用カバー・キッズ用BOTケース・キッズ用携帯ケース・ランドセル用ポーチ・ストラップ・サコッシュ・カトラリーケース・ドライヤー袋

おまけ。影響を受けた人物

勝友美さん

YouTubeのおすすめ動画で知った、オーダーメイドスーツ会社の社長さんです。短大を留年されたり、私と同じ1985年生まれであるにも関わらず、28歳で起業され、100年先まで続くブランドを作るという強い信念を持って成功されている女性です。YouTubeでは、夢を持って生きることの素晴らしさをテーマに発信されており、その美しさや力強さに憧れています。素晴らしい考え方をされており、いつも勉強させていただいています。

八木仁平さん

自分自身を深く理解することの大切さを伝えている会社の社長さんです。この方もYouTubeのおすすめ動画で知りました(YouTubeは私の人生に大きな影響を与えているようです!)。YouTubeの長尺動画「やりたいこと相談会」は、やりたいことはあるけれど、どうすればそれを仕事にできるか分からないという悩みを抱えた相談者に対して、八木さんの理論に基づいて解決へと導く内容です。動画本編だけでなく、視聴者からの共感コメントも非常に読み応えがあり、私も自分らしく生きるためのヒントをたくさんいただきました。私にとっては有料級の価値があるチャンネルだと感じています。